急速な欧米化で天皇の食事で肥満体質になり糖尿になったのでしょう。それにしても59歳とは若すぎる。皇后も洋風なものを好んだらしい。

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 糖尿病-4 明治天皇

 先週は、糖尿病により腎臓が弱るという話をしました。腎臓は「ざる」または「濾紙」にたとえられます。

私たちの腎臓は、体にとって必要なものは体の中に残し、不要な老廃物は捨てるというように、働いています。

しかし、糖尿病を患うと、この優秀な濾過装置の調子が悪くなってくるのです。

 この理由を簡単に説明しましょう。

糖尿病では,血の中の糖分が多くなります。すると,多すぎる糖分がタンパク質にくっついて、腎臓の細胞がうまく働かなくなるのです。

腎臓の病気は、まず、大切なタンパク質が尿に漏れ出てくることから始まります。

次に,

タンパク尿 → むくみ → 高血圧 → 腎不全 → 尿毒症

へと進みます。

尿毒症とは,体にとって毒となる老廃物が、尿の中に出ていかなくなり、体の中に貯まってしまう状態です。

放置すると、意識がもうろうとなるなど、命にかかわります。

 その尿毒症を患った方のお一人が、明治天皇(1852-1912)です。

47歳ごろから糖尿病を発症されて、最後は糖尿病性尿毒症で崩御されました。当時の医療レベルや食生活には、興味が惹かれます。

 糖尿病は、医学技術が進歩をとげた現代においても、本人の生活習慣が改善されない限り、次第に悪くなってしまいます。

 これは、今も昔も同じです。要は、何度も繰り返しますが、まずは、食事が大切です。

私たち日本人はもともと農耕民族でした。

本来、私たちの体は穀物や野菜中心の食生活には合い、肉が多い欧米の食生活には合わないとされています。理想的なものは、江戸時代の食事です。時代劇の番組には、お膳の料理が出てきますね。大根の煮物や和え物をはじめ、バラエティに富んだ品々が並んでいます。

この和食こそ日本人の体にぴったりの食事なのです。

カロリーは控えめで、栄養のバランスも良く、現代の日本人に不足している繊維質(ファイバー)が多く含まれています。

噛む回数が多くなり、その信号が脳の満腹中枢に伝えられます。脳は「たくさん食べて満足」と感じて、腹持ちもよいのです。では、明日からどうすればいいのでしょうか?

 アドバイスしましょう。

三つの「白色」を控えてください。

塩分、砂糖、そして精白され過ぎたお米です。

塩分は血圧を高くして腎臓に負担をかけ、動脈硬化を起こします。

砂糖の摂取は、舌が甘い味を覚え、甘い誘惑に負ける習慣により、摂取熱量がオーバー気味になります。

精白しすぎると、お米の「胚」に含まれる栄養分豊かな部分がなくなってしまうからです。

 明治天皇のほかには、当時、フランスに留学して西洋文明にいち早く触れた西園寺公望も糖尿病を患いました。

さらに、作家の夏目漱石、画家の岸田劉生、詩人の北原白秋などが、糖尿病で亡くなりました。

このうち、多くの人が洋行など外国生活を経験しています。

 明治になり西洋の文明が日本にやってきて、日本は日の出の勢いで近代化しました。

しかし、同時に伝わった食習慣で食生活が豊かになり、ぜいたく病の糖尿病がまん延したのは皮肉な話です。

 世は健康ブーム。フィットネスクラブへ通うノリで、健康食たる昔の食生活に挑戦し、体の外と内から健康体を目指してみましょうね。


平野総合病院 塩谷滝雄医師談

糖尿病を患った歴史的人物として、藤原道長(966 ~ 1027)、明治天皇(1852~1912)、織田信長(1534~1582)、エジソン(1847~1931)、バッハ(1685~1750)などの人物がいたとされています。

藤原道長が糖尿病を患っていたと考えられる最も古い人物とされています。源氏物語の光源氏のモデルです。

本人の日記『御堂関白記』や側近であった藤原実資の『小右記』などに記載されていました。

40代から典型的な糖尿病の症状を発症したと言われており、50代となる頃、「近寄れど汝の顔よく見えず」というほど視力が低下し、62歳で背中の皮膚感染症から起きた敗血症で亡くなったと言われています。

また、明治天皇が糖尿病を患っていたと明確な記録が残っている最も古い人物とされています。

40代から肥満になり始め、40代後半から糖尿病を発症と言われています。糖尿病や慢性腎臓炎などで身体はボロボロとなり、59歳で糖尿病腎症による尿毒症で崩御とされています。

 何故、血糖コントロールが必要なのでしょうか? 

血糖が高いと、全身の血管が脆くなり詰まったりします。その結果、全身の合併症を引き起こすこととなります。

糖尿病全身合併症として、様々なものがあります。

1.目では、糖尿病網膜症・白内障・緑内障、

2.脳では、動脈硬化・脳梗塞・糖尿病昏睡、

3.呼吸器では、感染症・感冒肺炎・肺結核、

4.心臓では、動脈硬化・心筋梗塞・狭心症、

5.腎臓では、糖尿病性腎症・尿毒症、

6.泌尿器では、尿路感染症・膀胱炎・排尿障害、

皮膚では、皮膚病・感染症、

神経では、糖尿病神経障害、

足では、虫・糖尿病性壊疽

が合併してきます。

糖尿病合併症の割合として、神経障害 11.8%、腎症 11.1%、網膜症 10.6%、足の壊疽 0.7%となっています。

糖尿病眼合併症として、糖尿病網膜症 30~60% 眼底出血を起こしたり、失明に至ることもあります。

黄斑症 10~20% 視力低下、歪みが起こります。血管新生緑内障 3~5% 眼圧が高くなり、視野障害をきたし、失明に至ることもあります。

これらの合併症は糖尿病に伴う失明の原因となります。

その他の眼合併症として、白内障 20~60% 水晶体が白く濁り、視力障害をきたします。角膜障害 10~70%

 角膜の表面が障害され、ドライアイなどが起こります。屈折・調節異常 2~8% 近視が進んだり、老眼が早く出ます。虚血製視神経症 0.2~0.5% 頻度は低いですが、高度の視力障害を残します。外眼筋麻痺 0.2~1.0% 眼球運動障害を起こします。

世界での糖尿病網膜症に伴う視覚障害の現状として、糖尿病患者さんの約3分の1に何らかの網膜症があり、さらにその約3分の1は何らかの視覚障害を起こしています。

 本邦に於ける現状・推測は、国内の糖尿病患者数は約950万人あり、網膜症患者数は約300万人と予測されています。

約100万人は視力に影響が出ている可能性があり、現状では、毎年約3,000人の方が失明しています。

なぜ糖尿病網膜症での視力障害が減ったのでしょうか? 

その理由として、内科と眼科の連携が良くなったこと。

薬剤の進歩もあり血糖を適切にコントロール出来るようになってきた。血圧や脂質などのリスクファクターも含めたトータル管理の意識が上がった。眼科に於ける治療の進歩があげられます。


明治の終焉 by クールスーサン

明治天皇は日本酒やワインを好んでいたこともあり、明治三十七年には糖尿病と診断され酒は控えていたが病は確実に明治天皇を蝕んでいた。

侍医も診察を行っていたが、当時は「天皇の体に触れる」ことは治療のためとはいえためらわれ、医学の進歩もなく適切な処置が行われていなかった。

また明治天皇自身が医師嫌いだった。

 糖尿病が進行するにつれ弱気な発言も増え、特に昭憲皇太后のことを案じていた。

もし亡くなれば皇太子(大正天皇)の即位や、その後のことなどが昭憲皇太后一人の肩にのしかかることを心配したからである。

昭憲皇太后は明治天皇より3歳年上だが、元々小柄で華奢で少食とだったため精神的圧迫に耐えられるか心配したのであろう。皇太后とは常日頃から冗談を飛ばし合う仲の良いご夫婦だった。

この年は酷暑で、それが60歳になろうとする明治天皇の体にかなり負担をかけた。

 明治45年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸され、その頃から体調が悪化され、同月20日に天皇の重態が官報号外で国民に公表された。

以後、皇居の二重橋や全国の郷社・県社では天皇の平癒を祈願する人々が集まり、歌舞音曲が停止され、江戸時代より続く両国の川開きの花火大会(隅田川花火大会)をはじめ多くの興行や催し物が中止となった。

自粛はさらに高じて皇居近くを通る電車が音を出さないよう、線路に襤褸(ぼろ)を敷くなどした。

陛下のご平癒を願って多くの国民が続々と皇居に集まり病気平癒の祈願が行われたが、人々の祈りもむなしく明治天皇は還暦を迎える前の明治45年/大正元年7月30日に(満59歳)で崩御された。

明治の終焉

 明治天皇はあの夏一番暑いときに崩御されたが、それは公式発表で、実際には29日の夜半に崩御された。

その時間を遅らせ30日とされたのは践祚・朝見・改元などの儀式の時間的余裕がなかったためである。

明治以降は一人の天皇につき元号ひとつ、ということになりましたから、まさに時代が変わり、歴史が動いた日といえる。

 陛下の崩御を受け、皇太子嘉仁親王が直ちに第123代天皇となられ、元号も大正に改まった。明治天皇の大喪の儀は9月13日に行われ、ご霊柩は翌14日に京都へ列車にて移送され、降りしきる雨の中を遺言に従って京都・伏見の桃山御陵に埋葬された。明治天皇は近畿圏に葬られた最後の天皇になる。

 明治天皇は国家の元首のみならず、日本が幕府による武家政権から欧米列強に肩を並べる近代国家にまで成長を遂げた、いわば国家の興隆と繁栄の象徴でもあった。それだけに明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉を強く印象づけた。

 夏目漱石は、

「行事のどこがお上の健康を損じるというのか。既に亡くなったのなら自粛もやむを得ないが、過剰な自粛は経済のためにならず、また民の怨嗟が政府に集まる元になる」

「新聞は陛下の徳を報じるどころか、お名を傷つけるようなことばかり書いている」

「行事や営業ができなくなって困っている民衆も多いだろうに、当局の没常識には驚くばかりだ」

と日記に書くながら、小説「こゝろ」の中で

「其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終わつたやうな気がした」

と書いた。

崩御を受け国内のみならず海外の新聞も明治天皇への賛辞と哀悼の意を表した。

英紙・モーニング・ポストは、「明治天皇の治世における日本の発展は、世界の歴史上その類例を見ないほど急速にして、かつ目ざましいものであった」と伝えている

 明治天皇のご神霊をお祀りして、ご聖徳を永遠に敬ってお慕いしたい熱い願いが自然に沸き上がり、大正9年に、東京・代々木の地に、大正3年に崩御された皇后の昭憲皇太后とともに、御祭神として明治神宮が建設された。
 
乃木希典夫人とともに殉死

 なお大喪の儀が行われた日に、明治天皇のご信任が厚かった陸軍大将の乃木希典が、天皇の後を追うように夫妻ともに自刃して国民に大きな衝撃を与えた。 

明治天皇の重態が知らされて以降、陸軍大将・乃木希典は一日のうちに三回も参内し病状を伺っていた。

乃木はかつて、日清戦争での失敗に関する責任感から、死をもって将兵に詫びたいと考えていたところを、明治天皇に「今はその時ではない。どうしてもというなら、わしが死んだ後にせよ」と止められたことがあった。

それでなくても、乃木は大変忠誠心の厚い人でしたから居ても立ってもいられなかったのであろう。日に三回、というのは侍医の診察が一日三回だったからだと思われます。診察の直後に行って、詳しい病状を聞いていた。

 大正12年には乃木大将が自刃した邸宅の隣地に、国民の熱意により乃木神社が創建され、昭和2年には明治天皇のお誕生日である11月3日が「明治節」として祝祭日になった。日本に大きな興隆と繁栄とをもたらした明治の精神は、後世の人々に受け継がれ、今もなお光り輝きいている。森鴎外は乃木大将の自刃について、歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を書き上げた。

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史上最悪の自然災害

life.jah.tokyo/関東大震災は震度7が3回続き10分揺れた/

1923年9月1日、関東大震災が発生しました。この地震は、日本における史上最悪の自然災害だったのです。100年近く経過しているために、この災害について正確に知っている人が少なくなりました。

1923年の関東大震災とは、どれほどの災害だったのでしょうか。第二次世界大戦前を描くドラマでは、関東大震災の出来事が組み込まれていますが、具体的に表現されたものは多くありません。

1923年9月1日午前11時58分、相模トラフ(Trough:海溝)でマグニチュード7.9の巨大地震が発生し、最大震度7だったのです。この巨大地震が、近い将来に、また確実に発生すると言われています。(相模トラフ:関東地方の南方沖にある海底地形、及びそれに由来する現在活動中の沈み込み帯名です。)

関東大震災については、多くの人に知られていますが、この後にもマグニチュード7以上の地震が立て続けに発生していたのはあまり知られていません。

2度目の地震は、最初の地震から3分後でした。午後0時1分、東京湾北部を震源とするマグニチュード7.2の地震が発生しました。この時の地震も最大震度7に達していたのです。

3度目の地震は、その2分後に起こりました。午後0時3分、神奈川県と山梨県の県境付近を震源とする場所です。その時は、マグニチュード7.3の地震が発生しています。この地震でも同様に、震源付近が震度7相当の揺れでした。

関東大震災は一つの地震だけではなかったのです。首都直下地震と同じような大きさの地震が3度続けて起きていました。

100年近く前、1923年は、震度の観測点が少なかったのです。そのため被害状況をもとに詳しい震度分布がつくられました。

最初の地震:マグニチュード7.9
二つ目の地震:マグニチュード7.2
三つ目の地震:マグニチュード7.3

これら三つの地震の発生間隔があまりにも短かったのです。人工地震だったのでしょうか。

1923年は、まだ第二次世界大戦前です。原子爆弾はおそらく開発されていません。数十キロ深く掘る掘削機もなかったでしょう。なければ、水を注入して水素核融合も起こせません。地震兵器ハープがこの時にあったのでしょうか。どう考えても自然地震だったと思います。

関東大震災は震度7の大地震が3度続いた

どの地震によって被害が出たのかを正確に特定するために分布図が作成されました。近年の研究によりますと、最初の地震が神奈川県や千葉県の南部に大きな被害をもたらしています。

2回目の東京湾北部で発生した地震は、東京都や埼玉県への被害の程度をより大きくしました。関東地方では、立て続けに大きな地震が発生したことで揺れが収まらない状況が続きました。強い揺れが続いた時間は10分間と言われています。

関東大震災とは、一つの地震ではなく震度7の大地震が3度起こり、10分間も激しく揺れていたということです。

関東大震災は、東京で起きた火災の被害が甚大だったため東京の真下で起きた地震と思われています。ところが、地震の揺れによる被害は神奈川県や千葉県の方が大きかったのです。

神奈川県の広い範囲と千葉県の南部を中心に全壊率は30%以上の場所に広がっています。横浜周辺の埋め立て地では、全壊率が80%を超えた所があるほどです。

住宅の倒壊による死者は、神奈川県が最も多く約6,000人です。次いで東京都が約3,500人です。千葉県が約1,300人となっています。住宅の倒壊による死者数だけでは、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の約2倍に達しています。

地震の倒壊よりも火災で多くの人が亡くなった

地震の倒壊による死者数よりも甚大な被害をもたらしたのは、火災でした。地震の発生時刻は、正午前後でした。通常多くの家庭が昼食の準備で火を使います。当時も使っていました。

これが原因で、現在の東京23区と横浜市で多数の火災が発生しました。東京都では136件、横浜では290件もの火災が発生したのです。運悪く、ちょうど接近していた台風による強風も火災による被害を大きくさせました。

東京都では6万人以上が、神奈川県では約2万5000人が死亡しました。痛ましいほどの被害者数です。火災発生件数が東京は、横浜より少なかったのですが、多くの死者を出してしまいました。それはなぜでしょうか。
考えられる要因の一つは、避難した人たちが燃えやすいものを持っていたかどうかが考えられます。東京都では陸軍被服廠跡(りくぐんひふくほんしょう:東京都王子区(現・北区))に多くの人が避難して来ました。ところが、多くの人が家財道具を持って非難していたのです。

燃えやすい木製のものが大量に集まっていました。そこに台風による強風や炎が渦を巻いて被害をさらに拡大させてしまったのです。そこは、火災旋風によって火の海となりました。その場所で、たった1箇所で4万人もの犠牲者を出してしまいました。この時の火災旋風では多くの人が巻き上げられ中には、数キロ離れた場所にまで飛ばされた人もいたほどです。

(火災旋風:竜巻状の空気の渦である巨大なつむじ風が発生して、甚大な被害をもたらすことがあります。この旋風は、人や物を吹き飛ばすだけではありません。その猛烈な風によって急速な延焼を引き起こします)

一方横浜市でも大規模な火災が発生しました。しかしながら、火災による死者は東京の半分以下でした。これは横浜在住の人々が、横浜公園に避難する時に、燃えやすい家財道具などを避難場所に持ち込まなかったことが分かります。

なぜならば、家屋の全壊率が非常に高かったため、家財道具を持ち出すことができなかったからです。また、避難所の管理も徹底されていたようです。公園の入り口で家財道具を捨てさせ、公園内に持ち込まないようにしていたため、燃えやすいものが避難場所にに溢れることはなかったようなのです。

倒壊が甚大だった横浜は、水道管が破裂し大きな水たまりができていたことで、火災から守られたようです。このような偶然が重なり横浜公園に避難した数万人は生き延びることができました。

津波と土砂災害による被害

関東大震災で津波が発生していました。津波による死者は200人から300人ほどと言われています。津波の発生場所が陸に近かったため、地震が発生してから、数分で津波が到達しました。早いところでは、わずか5分で津波が到達しています。

特に津波が高かったのは、伊豆半島の沿岸と千葉県南部です。津波の高さは10メートル前後に達していました。3.11も同規模の津波が発生していましたので、かなり大きな津波だったことが分かります。

山間部では土砂災害が発生しています。中でも現在の神奈川県小田原市に位置する根府川駅では土石流が発生し汽車が駅舎などの構造物と一緒に流され大破し、100人以上が亡くなりました。

地震の揺れによる犠牲者は神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県などの非常に広い範囲に及んでいます。また東京と横浜では火災によって多くの犠牲者が出たことが分かります。
参考文献:ユーチューブ、【震度7連発】関東大震災は恐ろしいほど異常な地震だった!

史上最悪の被害をもたらした理由
<youtube.com/watch?v=VxKG0-jtB38>アクセス日:2020年10月18日

まとめ
関東大震災は日本史上最悪の自然災害だった。
関東大震災は震度7の大地震が3度続き10分間揺れた。
火災によって東京都では6万人以上が、神奈川県では約2万5000人が死亡した。
地震発生から5分で10メートルの津波が発生している。